『濁っていてはダメ。いつも瞳は澄んでいよう。』

人間の寿命から考えてみると、

20年くらい前は、60代で寿命を迎える人が多かったように感じますが、

今時は70代で逝ってしまったら『まだ若いのに、、、』という感じです。

90歳前後という感じでしょうかねぇ。

その内、身体を大事にしている人は、百歳近くまで生きるんじゃないかと感じます。

人間が物心ついて社会人らしい考えを持つのには、二十歳くらいでしょうか。

二十歳から百歳まで生きたとして80年。

この80年間を、いつも自分のことだけ考えて過ごす人生もある。

しかし、周囲のこと、地域のこと、国のことや将来のこと、というふうにいつもそういう考え方を持って生きたとしたら、

段々その人生は太くて幅の広い人生へと変わって行くと思うんですね。

お互い、出来ればそういう幅の広い、直径の太い人生であった方が良いんじゃないかと思うのです。

こういう生き方は何もその人の能力や才能、財力や家柄などとは、関係ないと、つくづく思います。

立派と言われる学歴や地位や肩書きがありながら、世の中にやねぇ全く貢献できない人もよぉ~けおるような気がします。

そういう人達は、だいたい、学歴や職歴や、地位や才能や肩書き等が自分より劣るなぁと思っている人に対しては『見下している』んですよ。

言葉より、行動で瞬時に分かりますね。

経営者で言うなら、

縁あって自分の社員になってくれている人達の人生を考えたことも無い人が、沢山居るのも端から見てて感じる人、まぁまぁ居りますねぇ。

その社長の、社員への待遇を見たら、瞬時に感じますよ。

自分の金儲けの道具にしか社員のことを思っていないとしか感じられない処遇を見たら、


感じざるを得ないのよなぁ。

それでは、心通じ合う道理がないよねぇ。

ワシは、よく言うて来ました。

『何でちゃんとしてやらんの?もし、自分の娘がやねぇ、大学受験に際して、お父さんどうしても東京の私学の○○学部に行きたいの。

って真剣に頼んで来たら、借金(教育ローン)してでも、思いを叶えさせてやりたいと思わへんの?

それと同じ気持ちで、自分とこの社員にも、行動してやらんと、経営者やっとる価値ないでぇ。』って。

一方、学歴や職歴や、才能は、人様に誇れるほどではないけれど、

いつも、社会のことや周囲の将来のことを、考えて行動している人達も少なくないのを、ワシは知っています。

人間の価値は、どこにあるのか、もう一度見直してみてはどうでしょうか。

自分のことばかり考えて行動していると、自分の人生が行き詰まるようになって行くんですよ!

ほんまやけん。

行き詰まった人達に、こそっと、聴いてみてん。

ホンマやって感じるから(笑)

どんな状況下でも、自分と自分の周囲や、社会のことを考えることを習慣になっている人は、行き詰まらないようになっていると、

自分の体験からもハッキリ言えます。

本当に価値ある人というのは『良い習慣』を沢山持っていますね。

良い習慣というと、難しそうに考えますが大したことはないんですよ。

ゴミを見たらサッと拾うとか、靴が乱れていたら、ちゃんと揃えるとか、狭い道で行き合ったら、ちょっと退いて道を譲るとか、

カチン!と来るのは、脳が感じることやから仕方ないんですが、

その後、どう行動するかは、自分が決める事が出来るという自由があるんですよ皆さん。


大いに『カチン!』と来たらいいんです。

人間なんやから。

カチン!と来て、ぶちギレたらええんです。

溜めたらいかんよ。

あなたの身体にツケ来るから(笑)

でも、その後のあなたの言動が、あなたの、将来の嫌事を招くのか慶事を招くのか、自業自得なんやから。

価値ある人生を歩む為に『自分の瞳が濁るような生き方はしない。』

『後味の悪い日は送らない。』

この二つだけでも続けてみてはどうでしょうか。

それを実践する為に、『心の無駄遣い』をしないよう自己チェックして下さい。

時間の無駄遣い、お金の無駄遣い、

それよりも、心の無駄遣いが人間にとって一番よくないと思うんです。

善からぬ事を考えたり安易な事を考えたりするだけでも、心の無駄遣いです。

思っても、甲斐のないことを思ったりするのも心の無駄遣い。

やっぱり、思ったら、甲斐のあることを思い続ける。

そして、やり通すということが一番力に成ると思うのです。

必ず、その人生は輝ける人生になって行くと思うのです。

いつも瞳は澄んでいようじゃないですか!

例えどんな小さな灯火でも、一度点(トモ)した灯火は、絶対に消さない。

どんなことがあっても消さないという気持ちで守り続けてほしいんです!

同じ灯火を持った人達が集まって来て、やがて大きな青い炎に変わって行くと信じているんですよワシは。


こんな営業、多くないですか?あなたの商品に興味があります。

取り扱いしたいので、販売代理店になるにはロットと卸値はいくらになりますか?って。
まぁうちで例えるなら先ずお客さんで買って飲んでから、

感想なり何なりリアクションがあって初めて『扱いたいんですが、、、』

でしょ?

売れそうだから、扱おうか?

だけでオファー掛けて来る人、割りと多いんですよ。

ワシは、そういう感覚の人は、人間が軽過ぎると感じてしまうんですね。

自分勝手というか、自分「だけ」の損得しか眼中に無い!って感じがしてしまう。

げんなりするんよね。

本氣度、関心度が感じないからです。誠実さも感じません。

見積もりだけして、返事しない人も多い気がするなぁ。

相手に対して失礼だという感覚すら無いんだと感じてしまいます。

返事が出来ない人が、ほんまに多いと思いませんか?

そもそも、何かの販売代理店を希望する人は商品も去ることながら経営姿勢を聞いて来るもんですがねぇ。

そういう人は、ワシは好感を持つんだよね。

実例として一つ。

今年の6月に韓国釜山の経営者から、エモーションのサラシアルイボス(血糖値やヘモグロビンa1cと便秘の改善に良いお茶)を扱いたいという縁があり、

その経営者は日本語も読めるし、話も出来るので、エモーションの経営指針書他、考え方生き方を綴ったものを読んでくれたらしく、

ワシに会いたいと、宇多津(地元)まで来たのには本氣度と関心度を感じたねぇ。

それから打ち合わせや韓国での輸入関税やら諸々調べて、

その会社のオリジナルパッケージで取り扱いが始まったんだけど、

毎月発注ロットをコンスタントに注文が来ています。

だから11月6日から、韓国に行って、事情聞いたり、アドバイスしたり、

打ち合わせと、懇親しに行きます。

高松~ソウルの航空便が毎日運行になったばかりなので、ソウルに行くって伝えると、

わざわざ釜山から新幹線で社員さん連れて、ソウルの宿泊ホテルまで来てくれることになりましたが、

本氣の人は、心地好いねぇ。

うちは以前からエモーションのルイボスを扱いたいと言う人には、

宇多津(地元)まで来られますか?一泊で。

って声掛けてますよ。

相手の本氣度や関心度を図る上でも。

だから、わざわざ東京からも来られましたし名古屋からも、

色々な地域から香川湧慈に会いに来られますよ。

で、代理店成りたいとなれば、基本、先入金です。

本氣度、関心度のある人は、すぐ振り込んでくれますね。

気持ちいいです。✨

こういう関係は、振り返ってみても長年の、お付き合いになっていますね。

うちは、顕微鏡の如くアフターフォローしますから。

信頼関係が成り立たないと、ビジネスが成り立たない『独自の仕組み』にしているんですね。

デジタルでは出来得ない仕組みにしているんです。だからエモーションの仕組みは『凄い⤴』って、何人にも言ってもらいましたね。

ハードとソフトと信頼関係の三つ巴の構築が大事で大切なんじゃないかと思います。

皆さんの会社のシステムはどうですか?

ハード&ソフト&信頼関係が成り立っていますか?ご一考あれ。

およそ『仕事』をする人って言うのは皆『アーティスト』でないといかんと思うんだけどねぇ。

アーティストと呼ばれる人達は、大勢の人に震えてもらう仕事をすることによって、自らも震える存在であり続けようと努力している人とも言えます。

そう考えれば、経営もアートだし、営業もアートだし、人事も総務も経理もアート、研究も開発も製造も企画もアート、

つまり、仕事に携わる人は皆、アーティストであり、そのアーティストが世に問う仕事は、すべて「アート」である。

と考えることもできますね。

今の仕事を極めて、お客さんの期待を超える仕事を行えるようになり、

お客さんに興奮してもらったり、感動してもらったり、

という世界を生み出せるように、常に精進を怠らない。

そんな気持ちになるのではないでしょうか。

皆さんは、自分の仕事をアートにしようと、取り組んでますか?

日々の何気ない同じ事の繰り返しの上に仕事は成り立っています。

ここで大事なのは、あなたの心構えなんです。

ちょっとした日々の、あなたの業務をアートにして行こうという、心構えの問題ですよ。

アーティストの中で、天才と言われた、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』という本を読みましたが、

やっぱり『芸術は爆発だ!』っていう有名な言葉がありますが、その通りの生き様だと感じましたね。

面白いし、発見があるね。一度、読んでみては?

皆さんも自分の人生、周囲が震える、そして自分が震える生き様を歩みませんか?!

そして、自身が世に問うているものは、「アート」であるのか、それとも、

やがて打ち捨てられる「ゴミ」なのか、

自問自答を重ねてみませんか。

毎日少しづつでも成長を遂げるには自問自答で自浄作用を起こして行くしかないんじゃないかと思う訳です。

それを『自分に素直』と言うんじゃないかなぁ。

一日一回でも良いんです。自問自答を重ねる素直さの積み重ね。

つまり『微差を積み重ねて、絶対差を作り出す』ための最短距離であると考えてみてはどうですかねぇ。







人間は『胸に秘めたる念(オモ)い』がなければならない。

と思うんだけどねぇ。

真っ赤な炎でなく、青い炎です。

真っ赤な炎は、吹き消えることが多いんだけど、青い炎は、中々消えないもんです。

胸に秘めたる念いは、めったに口に出すもんじゃないし、

どんな状況に陥っても消えないんですよ。

人の『おもい』には、思い、想い、念い、があるように感じます。

『おもい』の度合いが最も強いものが執念の念です。

ここで言う執念は、理想像を諦めない執念のことです。

だからワシは文字を書く時に、わざわざ使い分けています。

『思い』と『想い』と『念い』を区別して。

自分の生き方に念いがある人は、心自由に歩めていると感じます。

一般的に通用している愛というものは、強さから生まれていないように感じるし、

むしろ弱さや必要性から生まれて来る愛の方が多いような気がするんです。

それは真の愛じゃない感じがしますね。

その証拠に、愛というのは、すぐに裏返しになってしまって、

敵同士になったりしている世間は、多いように感じます。

『愛憎』というくらいだから、世俗の『愛』の裏側には『憎』が、

くっついているんですね。

真の愛であれば敵対することは起こらない。執着心から敵対が起こる。

ワシは、それらを超越した物事の本質に眼を向けるよう心がけているんです。

物事の本質を追求して行くことによって生まれる真の知識を手に出来るように感じます。

その可能性は、全ての人間の内奥に存在していると思うんです。

世間の知識を超越した真の知識こそが、自分に自信を与え、次元を高めてくれます。

多くの人達が、世間に合わせ、順応して生きることが社会的に自立している

人間の条件と知らず知らずに教えられて来た人は、多いと思います。

それを批判はしませんが、ワシに言わせると自分に素直に生きることが出来ず、

世間という魔物の下敷きになって生きている姿にしか見えないんだよね。

それは決して自立しているとは見えない。

世間に合わせることは言葉を変えれば世間に管理されることであり安全な位置を獲得するけど、

自分の道を犠牲にしていることになっているんです。自分の思うがままに、自分に素直に生きられない。

それでも人として生きなければならない。そこに欲求不満が残るんですね。

一方、世間に合わせようとせず、世間に背を向けて歩む人達は単なる変わり者として、うさんくさい人として片付けられてしまう。ならまだしも、

時には世間を敵に回してしまうことになる。

世間に背を向ければ、不安な日々を送るのは必定。

どっちに転んでも、欲求不満ないし不安から解放されることはない。

ワシはこう考えます。

外面的なことに身を任せるんじゃなく、自分という内面に身を任せるなら、

自分という存在に確信を持つことが出来るはず。

外面的なことだけに、関心の眼を奪われていては、いつまで経っても主体性を確立することなど出来ない。

自分に確信を持ちましょう。その為に確りと内面に眼を向けましょう。

人が自由を求めるのなら、管理される方を選んで、自分を不愉快な人間にしてはいけません。

我が道を生きるとは、我を見捨てず、我を人任せにせず、自分の内面を大切にして、我を知ることにあるんです。

ワシは人様の言うことを聞く聞かないかよりも、自分の言うことを聞くか聞かないかを、いつも意識しているんです。

たいていの人は、世間に合わせることに気を使っている。他人の言うことを聞くか聞かないかを問題にしている。

ワシは自分に対して、『お前はワシの言うことを聞くのか聞かないのか。』という自問自答をして来ました。

こうした生活態度が、自分を裏切らない、ということにつながって行くんです。

自分を裏切らなければ他人をも裏切らないものです。

自分勝手ということではなく、本質的に自分を大切にしている人は他人のことも大切にするんですよ。

愉しい人生とは、そんなところにあるんじゃないでしょうか。

身近に接する人を裏切ったり、無下に扱ったりするのは人の道に反しますが、

その身近な人の大切さを、十分理解していても、時と場合によっては、

大切な人に目をつぶってもらわざるを得ない状況も起こるでしょう。

それを相手に納得して頂かなければならないのです。

自分本位の損だ得だというレベルで、大切な人や、ものを扱ってしまっては、その大切な人や、ものに失礼だと思うのです。

皆さんは、自分の都合や、その日の気分、目先の利益に流され、自分や大切にすべき人や、

大切にすべきことを裏切ってしまってはないでしょうか?

満足を求めるなかれ、納得ある人生を。ですね。

納得する為に、自分の内面に眼を向けるんです。

揺れない心を手に入れましょう。

それが青い炎やと思った今週でした。  

消費税10%に対して、軽減税率のややこしい事、この上ない!

自分の生活収入を脅かされない立場の人達が勝手に決めて、法案にしている。

他人事なんですよ。自分事じゃない。

数多くの零細店舗が、無駄な費用が掛かり、要らんでいい神経使わないといけなくなる。

迷惑千万ですね。

政府はキャッシュレス化を推進しているようだけど、

零細店舗ではカードやスマホ決済なんて出来ない所は、ごまんとあるしね。

年収総額が約6000万近くも取っている国会議員達や高給取りの官僚が企画立案する政策とは、ホンマに思えない。

バカじゃないかと思えて仕方ない。

年収6000万も自分で稼いでいるんじゃなくてやねぇ、

税金から自己収入を得ている人達だから、

自力で稼いで行こうという氣力より、甘え体質になって来るのは否めないんだよねぇ。

税金から生活費を取っている、こんな高給取りになると。

甘え体質になった人達は、自分達の利益しか考えられなくなるもんで、また世の中を良くして行こうとする政策能力が欠如しているとしか思えないんです。

こういう人達は、自分から自身の収入を下げてでも、世の中良くして行こうという政策はまずやらないんです。

実質立案している官僚も、自己エゴとしか考えられない政策。

財政を担当する財務省自らが、財務省全職員の収入カットをしてから、

世間に問うてくれと言いたいねぇ。

全く、バカとしか思えない施策ばかり。公僕とは言えない政策しか立案できない。

ホンマ情けない。皆さんは、そう思いませんか?!

まともな民間経営者なら、消費税を下げて、税収アップの政策を考えられるはず。そして国民が躍動できる政策を考えられるはず。

批判するなら、対案を出す。のが持論のワシですから、対案沢山あるんやけどなぁ。

国会で議論してほしいわ。してくれんけど😱

高齢化は進んで行くんでしょう。だったら、その高齢者が社会で生き生き働ける政策にしたら所得税ごっつ入って来るのにねぇ。

少子は、すぐに改善は出来ません。

また安易に外国人労働者に頼ろうとしている自己エゴの経営者や、政府。

国土の小さい日本の、幸福な人間生活を営める適正人口を考えたら江戸時代くらいの人口か、まぁ戦前の人口数が、適正になるんちゃうかなぁと感じます。

高齢者が所得税払っている人の年金は、満額支払い、身体の都合で働きたくても働けない人は除外して、

働ける健康状態なのに働いたら年金減らされるから損や、って言っている高齢者も、ようけおるのが、これまた人間を堕落させる。

ものすごい数の高齢者が生き生き働いたら、所得税収入激増で、消費税なんか2%で充分になるかも。

また、健康体高齢者も増えるであろうから、医療費激減になるかもです。

福祉社会の行き過ぎは、国民の民度が下がるんですよ。

福祉は人間として当たり前のことです。

当たり前のことは、まともな人は声高には言わないもんです。

朝は、おはよう。誰かに会えば、こんにちは。

ごはん食べる時には、いただきます。夜寝る時はおやすみ。

数え上げれば、生活で当たり前のことは、声高に言わないもんです。

だから、福祉にお金をなんて、声高に言うている人ほど、福祉に金を回していないように思うなぁ。ホンマに。

人権人権と声高に言うている人ほど、人格が低い人達じゃないかと思ってしまうのはワシだけでしょうか?

人間は、生涯現役が、結局幸福な人生を歩めるんじゃないかと言うのが、

ワシの昔からの持論であり、主張なんやけどね。

自分のやりたい事を、仕事にしていても、続けられないこともあるのが人生。

また、どうしても生活の為に、自分がやりたい仕事じゃない仕事に就かざるを得ない人もいるのも、人生です。

いずれにせよ、

変えようのない事実を丸ごと受け止めて、工夫して歩みながら、

自分は、どんな仕事をしようとも、自分の周囲の人達を喜ばすんだ
という志さえあれば、自立した人生に成るんじゃないでしょうか。

それを幸福な人生と、言うんじゃないでしょうか。  

誰かが話していることを聴いて、本当に感動した人は、

「感動しましたぁ~」なんて言いません!!

感動しましたって口に出るのは、感動の域に達していないんだと感じるんだけどねホンマに。

本当に感動したら、言葉は出ないもんですよ。

そう感じませんか?

ググッと、胸が詰まるもんです。

「あぁ~っホンマやぁ~❗」「うぅ~んんっ❗」と唸るもんやし、

項垂(うなだ)れますから。

そう感じませんかぁ?

また「覚悟があります」って、言っている人は、覚悟が定まってないような気がするなぁ。

覚悟って、丸ごと受け入れる心境です。

だいたいにして人は、自分の都合で、受け入れるか、受け入れないかを決めているんですよ。

それはそれで、いいんだけど、覚悟という事に於いては、都合で決めるもんやないと思うんです。

例えば病弱な子供や、何か障害を持っている子供の健康状態が良くなっていると喜び、 悪くなって行くと嘆いている人を見聞きしますが、

ワシに言わせたら、それは丸ごと受け入れてないんです。

昔ワシの知人が、自分の友人(障害を持つ子供が居る)に

『お前は自分の子供を受け入れてないなぁっ!!』って、

言っているのを、たまたま聞いて、なるほど!と思った経験があります。

丸ごと受け入れるというのは、条件をつけたら、いかんのです。

好むと好まざるに関わらず、縁あって自分の下に生まれて来た子供や、

会社で言うなら自分が一旦は受け入れた社員なんやから。

丸ごと受け入れる心境が、その人の覚悟と言うもんなんです。

そして丸ごと受け入れるから、その人を認めていることになるし、

その人が生きて来るんですね。

ホームドラマと、大河ドラマがありますが、あなたの人生、どっちが好みですか?

ワシは昔から機会あれば言うて来ました。

ホームドラマより、大河ドラマの人生を歩みたいなぁと。

振幅大きいけど、一生いっぺんなんやから、触れ幅激しい大河ドラマが、

おもろい人生やと感じるんだけどね。

昔、ワシの師匠の講義に、こういうのがありました。

「勤め人(サラリーマン)が定年退職を迎えた時に、社長に対して、お陰様で無事大火なく会社で過ごさせてもらいました。有難うございました。」

って言う挨拶をするような人生を歩むなっ!て。

『無事大火なく』とは、何にもチャレンジして来なかったという証しです。

つまらん人生やなぁと感じますね。

ワシがもし勤め人ならこういう退職の挨拶をするなぁ。

「長い勤め人人生で、過去のあの事は、私の責任で会社に多大な迷惑を掛けてしまい、申し訳ありませんでした。
しかしながら、この販売ルートの開拓はお役に立てたと自負しております。

長い間、お世話になりました。有難うございました。」

的な挨拶をするなぁ。

穏便に大火なく。は、チャレンジしていないということじゃないかなぁ。

人生、攻め以外に勝利なし。です。

攻めるとは、思う一点に全力投球する事を言います。

また攻めるとは、チャレンジの連続であり、創意工夫の連続なんです。

人生常にチャレンジ。常に創意工夫が、人間を輝かす基礎に成ると思えるんだけどねぇ。



 『練習はウソをつかない!』


スポーツ・音楽・芸術や習い事・研究・事務職や製造そして営業等に言えることやと思います。

あなたがやって来た事で上手く行かなかった事も多々あったと思います。

その要因に練習不足があったはず。

ただ闇雲に練習しただけでは能力は身に付かないと思う訳です。

基本、基礎、定石を、先ず学んでからの練習でないと、

功を奏さないと思う訳です。

また基本、基礎、定石を『どんな人物』から学ぶかが、胆です。

これが巡り合わせ、縁というものです。

教育は知的理解を得て反復訓練するのが順序なんです。

これを『教育』と言うんじゃないかと思う訳です。

先ず理屈で納得させること。納得すること。

納得させたなら、納得したなら、反復訓練させること。反復訓練すること。

この繰り返しですね。

これが『真の練習』なんです。

だから、練習はウソをつかない!んです。

相手が、納得をしないまま練習をさせるからパワハラだとか思われるし、

練習が身に付かないんです。

練習は、ちょっとした事に手を抜かない。ココなんです。

上手く行くか、行かないかの、分かれ目は。

特に営業のコツは、対個別対応能力を上げ続けるしか自身の能力開発はないと自覚して日々挑んでもらいたいと思う訳です。

よく社員の数が規模が大きい会社で見聞きする『研修』で感じるのは、

社員をやる氣にさせて仕事を順調にしてもらいたいという思いがあるからじゃないかなぁと思う訳です。

まぁ、それが悪いとは言いませんが、

この時、社長も一緒に研修を受けることが、胆なんです。

だいたいに於いて、社員だけを研修に出しているところに問題があるんです。

うちは以前から『社内学校』と題して人格教育を長年実施しています。

始めた想いは、たぶん他の経営者と違う観点だと思いますが、

こういう想い、願いから始めました。

社員が人生で起こる、様々な問題事を自分で克服できる人間に成ってもらいたい、という『この一点の願い』から始めました。

仕事をちゃんとしてもらいたい、とかじゃないんですよ。

人間としての『力』を身に付けてほしいという願いからやっているんです。

二ヶ月に一度。勤務時間中に二時間。

会社運営の最終責任者は、言わずと知れた、社長ですが、

社員一人一人の人生の最終責任者は自分自身なんやから、

将来何が起こっても、覚悟して対処して行ける、克服して行ける、

その能力を身に付けてほしいという、強い想いでやっているんですね。

総合的な意味で『練習は、ウソをつかない。』と胸に刻んでほしいんです。

『人間は苦しい時こそ普通の事ができなければならない。』

今週は、このメッセージを、と何となく浮かびましたので。

まぁ、だいたいの人は苦しい時は、普通の事ができてないんじゃないかと思う訳です。

ほんでも思うんよね。

苦しい時の、あなたの行動と考え方、捉え方と、もう一つ、

出会いが将来の運を左右するような気がします。

『ネバーギブアップ』の精神というのは人生の究極目的、

つまり『志』を諦めない。

このことに於いてのみネバーギブアップですが、

志の域に達していない事柄は、潔く諦める事も大事かと。

エネルギッシュに潔く行動している人は、

苦しい時こそ普通の事を淡々とやっている人が多いような気がするけどねぇ。

あなたはどうですか?

志があれば、ブレない生き方が出来るような気がしますね。

野心と志は違いますからね。

野心は、自分の目的が自分だけのハッピーに成るものと言いましょうか、

志は自分の目的が自分と自分の周囲の人達のハッピーに成るものを言います。

分かりやすく例えるとね。

苦しい時に、普通の事が出来ない人というのは、野心で生きているのかも?

です。

あなたの日々の生活の歩みの中の、些細な事への行動を、

他人が見て『あんたは、立派や!』と、感じてくれる人間であってほしいとワシは思う訳です。

性格に百点は無いし、能力も皆が皆、優れている訳じゃないし、

たった一つでいいのです。

あなたを知っている人から『あんたは立派や!』と思ってもらえる人間であったらええのではないでしょうか。

そこに焦点を当てませんか!

うちの社員にも昔から願って来ましたよ。

『あんたは立派や!』と感じてもらえる人間であり続けてほしいだけだと。

一言で言うならね。

志って、そういうもんやと思います。

何も大壮なものだけが志ではないと思うんです。

死ぬまでに出逢う人が『縁ある人』と言いますが、好むと好まざるに関わらず、

付き合いが長い人達は『縁深い人』とかも知れませんね。

付き合いの長い人で且つ、本心で付き合っていないと、

あなたの、良い面も、悪い面も肌で感じてくれない訳やから、

その人達から『あんたは立派や!』と感じてくれる生き様を遺しませんか。

こう成りたい、ああ成りたい。

その為に、

苦しい時こそ普通の事ができなければならない。んですね。

これからの時代、人数規模の大きい会社は、

戦略的に縮小して行く方が充実度が増して行くような気がします。

そうやって本当に自社に相応しい適正規模を考えてみてはどうですかね?

大人数の会社が望みなら10人以下の事業所で百ヵ所作れば同じ会社で、

1000人の社員という事になるしね。

組織とは、上意下達と下意上達が順調な状態を言いますから、

上の意思を部下に伝えられていて且つ部下の意思が上司に伝えられている状態のことで、
尚且つ、そのメンバー同士が、同志つまり、相互に心通じ合っていて、

相互に認め合っている状態だから、
目的の共感が出来ている状態のことです。

だから、10人以下じゃないと、中々成り立たないと思う訳です。

社員が全員相互に意思疏通が順調で、心通じ合っている状態は、

10人以下の社員数じゃないと、出来得ないんじゃないかと思っているんです。
この規模で、事業の『着実性と収益性とビジネスモデルの持続性と発展性』を包括している事業を営むなら世間で言われる、人手不足なんて、

関係無いと感じるんだけどね。

それを実現する、一番重要なポイントは、

組織の中心人物である経営者の人格なんですね。

また、各事業所の所長であり店長の人格になりますよ。

その職場の中心人物が所長や店長です。

『中心人格の信念なき行動は、花は咲いても実は成らない。』なんです。

『花は咲いても』とは外見的に、事業が拡大していて、社員数も増えていて、売上、利益上昇している、という例えです。

『実が成る』とは、そこで働く人達の収入と、心の通じ合いや、仕事の充実感等の例えです。

まともな人は、その人の『人柄』に付いて来るもんだと思うからです。

最終的には、人柄に付くんですよ。

人は、厳しいから付いて来ないのでなく、信頼できないから、付いて来ないんです。

そう感じませんか。

経営者は会社の親であり、社員は会社の子供です。

世の中の親にとって、一番幸福な事は、信じられる我が子を持つことではないでしょうか。

親にとって、一番幸福なことは『あぁ、ワシがいつくたばっても、あの子なら立派にやってくれる。』と、

親の目に適うて信じられる子を持つことではないでしょうか。

親が、安心して死ねる程信じられる事ではないでしょうか。

では、子供にとって、一番幸福な事は、親が尊敬できる事ではないでしょうか。

親が尊敬できないと言うこと程、子供にとって、不幸な事は無いと思います。

会社に置き換えると、経営者にとって、一番幸福な事は、信じられる社員を持つことではないでしょうか。

経営者にとって、一番幸福な事は『あぁ自分がいつくたばっても、うちの社員なら立派にやってくれる。』と、

経営者の目に適うて、信じられる社員を持つことではないでしょうか。

経営者が安心して死ねる程、信じられる事ではないでしょうか。

社員にとって一番幸福な事は経営者が尊敬できる事ではないでしょうか。

経営者が尊敬できないと言うこと程、社員にとって一番不幸な事は無いと思います。

ということが言いたいのです。

バブル崩壊後、デフレが30年近く続いています。

これからも、やや低成長はあっても、高成長は無いでしょう。

そもそも、急成長って漢字が国語的におかしいと思いませんか。

赤ちゃんだって生まれてから20年経って成人式ですよ。

2~3年で、いきなり、二十歳にならへんのやから(笑)。

急成長というのは膨張なんです。

ぷぅ~と、🎈風船を、一気に膨らます感じやね。

膨張企業に陥ってはなりません。針一本で、爆発してしまいます。

インフレは難病ですがデフレは死病です。

デフレより多少のインフレの方が活氣が出るもんです。

デフレ時代に、着実に幸福を感じながら歩む会社経営を実践継続するポイントが、

社員間の心の通じ合いであり、経営者と社員が尊敬、安心出来ている間柄であり、

事業の着実性と収益性とビジネスモデルの持続性と発展性を包括しているかを常にチェックすることかなぁ、と思う訳です。

規模が既に大きくなっている会社の経営者の皆さん。

将来の充実の為に、戦略的に『心通じ合い相互に安心感抱ける』組織に、

縮小を工夫されてみてはどうでしょうか。

小集団活動の集合体がベターだと感じます。

世の中にベストは無い有るのはベター。ベストつまり、100点は無い。

常に、よりベターを。

なぜ、こういうことを言うかと言うと、

その会社なりに努力を重ねて、人数規模を大きくして来た中小企業が数百人になった会社を、まぁまぁ知っていますが、

昔のような充実感を、端から見てて、何か、感じないんよねぇ。

その人数の社員を毎月毎月食べさせて行く為に、何か昔と違って、

信念を貫いた商品を、サービスを、提供でき得てない感あり、なんですね。

辛抱ができ得ないんだと感じます。

次々と新商品新サービスを出し続けないと、その所帯を維持できないんだと感じてしまいます。

息切れしながら社業をやっている感を否めないんですね。

外見的には、隆々さをアピールせざるを得ない感を否めないんですね。

(見栄)

この感覚分かりますかねぇ?

現在ビジネスモデルとして既に数十人、数百人規模でないと利益が成り立たない業態や、分割は出来ない業態でしたら、

トップである経営者が、凄い!と全員から感じられる人物に成るしかメンバー皆の心を統一は出来ないと思います。

個別の問題解決より、凄い人物に成るよう努力されたし。です。

そうなると、数百人の心が一つに成れる社風が形成されると思う訳です。

『良い社風』が、全ての社員の心を一つにさせて行く力があるように感じます。

如何なる状況に置かれても、ブレない社業。

これを継続的に出来ている状態を『自由な状態』と、本来は言うんです。

西洋の自由は、選択の自由です。

好きか嫌いか、どっちを選ぶか、という『選択の自由』と言う意味だから、

浅いんです。深さが無いんです。

日本の自由は『如何なる状況に置かれても、己れを見失わない』という心境を、自由と言うんですね。

この自由をずっと継続する為に、それが維持出来るであろう適正規模を確立しませんか!

と投げ掛けますね。



今週は『人生の深さを身に付ける自覚』について思うことを。

全ては『観念』することから始まるんだけど観念していない人が、

ものすごく多いと思いますねぇ。

この『観念』をせずに行動をしても、人生の意味に、味わいを感じないんじゃないかと思う訳です。

『観念する』とは、いわゆる甘いも酸いも体験しながら、

トコトン自身を内観し尽くした時に、

『あぁ~自分が生きる道は、役に立てる自分の生き方は、これしかないなぁ。』と、

神妙になる心境のことを『観念する』と言う。と思うんです。

だから、観念して生きている人は、芯が強いんですよ。

うちの社員全員に芯の強い人間になってほしいから、

また何が遭っても、動揺しない心を備わってほしいと願っているから、

あたふたせず、物事に対処することが自然体で出来る人間になってほしいから、
人生を歩む考え方や、物事の捉え方をしょっちゅう話しながら、

日々の業務に意味合いを必ず話し、丁寧にこなすよう訓練しているんですね。

先ず、知的理解を与え日々の業務で反復訓練させない限り、身には付かないと思うなぁ。

普通の人はワシのこういう言動を、うっとうしい、と思うと思うんですが、

うっとうしいと思っている内は、
観念なんて出来得ないと感じます。

あぁ、有り難いなぁと思える人は、観念出来得る人間やと感じますね。

人間として観念して、生きてほしいから、大事なことは口酸っぱく言わな、

いかんのよホンマに。

ワシの亡き師匠はこう言うてました。『繰り返し言う勇氣を持て』と。

社員に口酸っぱく言うのは『会社の親』としての願いやからです。

また、観念は、考えて出来るもんじゃないんです。

沸々と、湧き上がって来るもんやと、ワシは思うんです。

だから、教えたからと言って、沸々と、湧き上がって来るもんじゃないんですね。

絶対零度から沸々と、湧いて来るものです。

皆さんは、沸々と湧き上がって来る感覚になったことがありますかねぇ?

自分は、これしか生きる道がないなぁ、

これしか、自分が誰かの役に立つ生き方は、出来ないなぁ、って、

沸々と湧き上がって来た体験はないですか?

沸々と湧き上がって来るものが、理念なんです。

理念とは、人生の究極目的のことを言うんですよ、皆さん。

理念って、何も経営者だけに存在するもんじゃないんです。勘違いしないように。

人生の目的である人生理念、つまりあなたの人生経営の理念です。

考えて作るもんじゃないんです。

トコトン自分を追い詰めて、極端に言うと、血ヘドを吐くくらいのところまで追い詰められた心境や、

内観し尽くして、湧き起こって来るもんなんです。

だから、観念している人の言動は、観念していない人からは、

理解が出来にくいかも知れません。

でも、言っている事が『人として、まともな事』なら、

理解しようと心を傾けてみては、どうでしょうか。

観念して人生を歩むことで、自分の人生を、より味わい深いものにし、

より高みに導いてゆくものになってゆくと感じます。

だから昔から『本真者(ほんまもの)の師匠』

と言われた人は弟子に対して、

『観念せぇっ!!』と喝を入れて来たんだと感じますね。

そこには、愛が存在しているんですね。

情が存在しているんですね。

思いやりが存在しているんですね。

だから、観念して、今から、あなたの真の人生をスタートしませんか!と言いたいんです。

昨日までは、リハーサル。という考え方で、今日からスタートしてほしいなぁと思う訳です。

また、観念したら、死に対しても不安にならないと感じます。ワシが、そうやもん。

覚悟が備わっているから、いつか来るであろう寿命が来た時、

『あの世』とやらに行く訳ですが、怖さは無い心境ですワシはね。

人間は病気で死ぬのでなく、事故で死ぬのでなく、自殺や他殺で死ぬのでなく、

寿命で死ぬ。

これを観念の域で信じられるか、どうかなんですよ。信じる信じないは、

人それぞれですが。

寿命で死ぬんだと観念したら、死は怖くないという心境になると感じます。

あの世には六道が在ると仏教は説きます。

六道とは、地獄→餓鬼→修羅→畜生→人間→天という、

あの世で住む世界のこと。

どこに行くかは、閻魔さんが決めるんじゃなく、

自分の生きて来た言動や生き様で、自動的に振り分けられると考えてみては、どうですか。

まさに、大いなる自業自得で、行き先が決まるんですね。

ワシの好きな人物に、源義経がいます。

義経と家臣である弁慶の詩に、ワシの大好きな詩があります。

弁慶が言います。

『六道の辻の巷で待てよ君(殿=義経公)、遅れ先立つ習いありとも。』と、

今は戦の最中。

本来なら、家臣である自分が先に死ぬものですが(遅れ先立つ習いありとも。)

戦ですから、どっちが先に死ぬか分かりません。

もし、殿(君)が先に逝くことになりましたら六道の辻の巷で待っていて下さい。

という意味です。

そしたら、義経公は、こう返しました。

『いつの世も、またいつの世も、巡り逢わん染む紫の雲の上まで』と。

何度生まれ変わってもまた、巡り逢おうぞ。

染む紫の雲の上(天上界の最高の住む世界)
に行くまで。という意味です。

こういう人間関係が、現代社会の、経営者と社員、夫婦、友人等の間で、

心底感じられる心境に成れた人を、

『幸福な人』とワシは思うんだけどねぇ。

そういう観点で、あなたは今、幸福ですか??

観念してますか??内観されたし。



色々と、他人の反応を気にし過ぎる人が多いようですので、メッセージを。

最初のリアクションで大体分かるもんじゃないでしょうか。

というメッセージです。
つまり、あなたが何か話したり、行動をした時に、

相手が最初に、どんな反応だったかで、感じるでしょう。

あなたが、誰かに何かアクションを起こした時に、相手が全く反応を示さなかったり、お座なりな対応だったりすることって多々あるでしょう。

それは、その時点では相手のあなたに対する好意の度合いが、薄いんです。

関心が無いんですよ。

良い悪いを言ってるのでなく、その時点での相手の、あなたに対する、

心の傾向性が感じ取れるんじゃないでしょうか。と言いたいのです。

あ、もう一つありますね。

その人が、何かに集中している時は悪気なく、お座なりになってしまうかも知れませんが。

相手があなたに関心が無かっても自分の商売に関する事だったら、

上手いように応対するかも知れませんが、自分の損得に関係するから、

が多いかも。

でも往々にして、最初の相手のリアクション(反応)を見て、あなたに対する好意の度合いや関心の度合いを認識したらええのに、

何で『要らんでいい気』を遣うのかなぁ。しんどくなりますよ。

もちろん人間にはバイオリズムがあります。興味、関心の度合いのバイオリズムです。

一年前には、興味がなかったのに、今はすごく興味がある。とか。

自分の得にならないと感じている人に対しては、氣が向いてないとか。

多いと思います。

『行ないは、心』ですから、その人の行為、つまり反応が、その人の今の心の表れなんです。

瞬時に判断したらええのです。

あぁ、今は、この人は(相手)自分に関心が無いんだ、とか、好意は抱いていなんだとか、

又は、逆に丁寧に反応してくれる人は、関心を持ってくれているんだ、

好意を持ってくれているんだとか、

はたまた、かなり気を遣ってくれているんだとかの判断基準になるんです。

だから何が言いたいかというと、

最初の反応が、自分が思うような反応じゃなかったからと言って、心左右されるなかれ。と。

淡々と、あなたがやるべき事を、右往左往せずに、一喜一憂せずにやったらええのです。

自分の人生の責任者は自分なんやから、

淡々と、やるべき事をやっていると自然体で居られると思いますね。

やっぱり、自然体が、一番です。ひょうひょうと行きましょう。

自分が、関心の薄い人から何かアクションされたら、

丁寧に応対することを徹底出来たらええんですがね。

特に、人間として大事なことには。

どうでもいい他愛ないことは、どうでもいいんだけど、他愛ない事に対しても、変な気を遣わずに自然体で丁寧に対応している自分でありたいですね。