人に意見をしてその人の欠陥を改めさせることは、大切なことである。

しかしながら、その方法については、大いに苦心を要するものである。

 

人の善悪を見出すことは、容易いことであるし、またそれを批判するのも簡単なことである。

大概の人は、人の嫌がる言い難い事を言ってあげることが親切だと心得て、

それが受け入れなければ、仕方が無いことだと言う。

これでは、何の益にもならない。人に恥をかかせ、悪口を言うのと同じ事である。

自分のうっぷん晴らしに言っているだけである。

 

意見というものは、先ず、相手にそれを受け入れる気持ちがあるかどうかを、よく見極め、互いに心を打ち明け合う程の仲となり、こちらの言葉を信頼するような状態にしなければならない。

 

それから気持ちを引き入れ、言い方や言う時期をよく考え、或いは手紙で、

或いは、別れ際などに自分自身の弱点や失敗などを話して、直接相手に意見しなくても、思い当たるようにするのが良いのである。

 

また、先ず相手の長所を褒め、気持ちを引き立て、その上で喉が渇いた時に水を飲むように、こちらの言い分を自然に受け入れられるように工夫して、

欠陥を直して行くのが、本当の意見である。殊の外、難しいものである。

 

誰しも、欠陥、弱点と言うのは長い間に染み付いたものであるから、一通りのことで直せないことは、自分にも覚えがある。

同僚同士がお互い親しくし、その欠陥を正し合い、一つ心になって御用を勤めるようになることこそ、思いやりである。

然るに人を辱めたのでは、どうしてこの目的を遂げる事が出来ようか。

 

人の善悪を取り上げて追求するものは、他人の恨みによる報いを受ける。

罪過の追求、詮議は人を辱めるだけに終わってしまう。

議論に勝って説得に成功することは無い。

さりげない会話の中で、相手の間違いをそれとなく示唆することが最善策ではあるが、これには受け入れられるだけの素地として、先ず信頼関係がなければならない。更に、言い方や時期に至るまでの考慮が必要である。

 

日頃、同僚から信頼されている先輩が後輩に対して相手が「やらされている」ではなく「働いている」と、能動的に仕事に向き合えるように意見する事が出来れば、組織の活性化を促すことになる。相手が受け入れ易い状況を積極的に働きかける大いなる「慈悲」が必要なのである。

 

うるさく一つの事を言うのは余り良いことではない。

水が余り清ければ、魚は棲まないということがある。

水藻などがあるからこそ、魚はその陰に隠れて成長するものである。

少々の事は見逃し、聞き逃しておくことによって、下々の者は安心して暮らすことが出来るのである。人の気持ちなども、この心得が必要である。

 

些細な事を、重箱の隅をつつくように論(あげつら)い、枝葉末節に拘る上司に部下は付いて来ない。うるさがられるばかりで、頼りにはされない。

それどころか、時として会社を揺るがす事態を引き起こす事にも成りかねない。

 

何故なら、部下は例え小さなミスを犯した場合でも、小うるさい上司には、

ひたすら隠そうとするからである。そのミスが発覚した時には、既に手遅れとなってしまう。得てして、こういう上司は部下を庇うことをしない。

部下は萎縮し、ヤル氣を失い、更にミスを重ねてしまうのである。

 

多少の事は見て見ぬ振りをする度量が無ければ、纏めて行くことは出来ない。

 

これが出来る経営者は、自分の経営方針に確信を持ち、かつ、部下に対する深い愛情を抱く人である。

 

人というものは、立場が下の者ほど苦労していることを、よく分かっていなければならない。

 

普通経営者は、社員より収入も高く、自由に使える経費もあるものである。

それに引き換え、欲しい物があっても、それを許す経済が無く、時間も拘束されるのが社員である。

 

その事を常に心に置き、感謝の念を持って日々暮らして行く心境が経営者には必要なのである。

 

軽輩の者たちの気持ちをよく察し、その立場に立って、広い視野を以って検討すれば、大きい過ちを起こすことはまず無いものである。

 

会社が大きくなり社員が増えて行けば、社長の眼も行き届かなくなる。

社員もまた、社長と接する機会も減って行く。これは、致し方の無いことであるからこそ、ここで管理職の任務が大切となる。

 

管理職を務める者は、大局的な立場に立たなければ、害が出るものである。

社長に代わって、社長の素行、幹部の善悪、世間の声、社員の苦楽などを、

正しく聞き取り、会社を正して行くのが、その務めである。

従って、上に対して厳しく点検する事が本来の主旨である。

 

然るに、社員の悪事を見出し、聞き質して言上するから、却って悪事が絶えず、

害を及ぼすことになる。

 

社員には、真に立派な者はそれほどは居ないが、下の者の悪事などは、別段会社に害をもたらすものでは無いのである。

また、悪事をした人を取り調べする役の者は、その人の言い分が通って、助かることを願って取り調べをするべきである。これも、結局は会社の為である。

 

最も求められるのが、この役割ではないだろうか。会社が掲げる理念に基づいた経営がなされているかどうか。一般社員全てが、会社経営の不正を知る事は不可能である。

 

先ず誰よりも、経営トップが、幹部管理者たちが、その行動に責任を持たなければ、最終的にその苦労を背負うのが現場の社員たちである。

下から上を仰ぎ見ても、見えるのは直属上司への不満や漠然とした会社への不満である。それは、時には根拠の無いものだったりもする。

 

会社全体を大局的に眺め、正しい判断が出来るのは、会長や顧問役である。

会長や顧問役、監査役などがこの目付けの機能を果たすことによって、会社は進路を過たずに済むであろう。それが出来なければ、その座に座る資格は無い。

 

また社長に進言するにもいろいろのやり方がある。真に忠義の志からする進言

は、周囲に知られないようにするものである。社長の感情に逆らわぬようにして、欠点を直して差し上げるのである。

 

間違っても、周囲に対して社長の欠点を大っぴらにし、自分の忠義ぶりを見せるような行為はしてはならない。

自分は、本当に会社の為を思ってやってるいるのだ、というように見せたいのだろうが、これは一種のパフォーマンスとでもいうべきものであって、同僚の反感を買うだけである。

社長に対して礼儀を外れた言葉遣いは、例え諫言であっても見苦しいものである。

 

諫言や意見などは、事が起きてしまってからでは、効果は無く、却って事が大きくなってしまう。病気になって薬を飲むようなものである。

諫言や忠言に限らず、社内の様々な動きに対しては、治療ではなく、予防でなければならない。欠陥製品が出荷されてからでは遅いのである。その前にくい止めなければならないし、それ以前に、欠陥製品が出来ないようにしなければならない。

 

経営トップは、人体に例えれば、頭の部分であり、心臓部分でもある。

ここに病が生じてしまえば、名医といえども治療には困難を伴うのである。

 

それ相応の立場にない者が諫言をすることは、却って不忠となる。もし、真に

忠義の心からするのであれば、自分の考えた意見をそれに相応しい人にそっと話し、その人の意見として述べてもらうならば、事は成就するだろう。

ともかく、いろいろと配慮をし、事が成就すれば良いのであって、自分の忠節心などは人に知られる必要はない。

 

もし、何人に相談して話が進まないようであれば、その時はそのままにしておいて、また繰り返し努力すれば、たいてい目的を遂げることが出来るのである。

我が身は一途に捨てて社長に捧げ、どのようになろうとも構わぬという気持ちになっていれば、道を取り違えることは無い。

 

大体、諫言というものは何の為にするのかと言えば、社長の過誤を正す為である。とすれば、どうすれば意見が採り入れてもらえるかを先ず、考えることである。

社長に近く仕える人には、社長やいろいろの人と親しくすることである。

自分の為ではなく、何か社長に申し上げたいことがある時の為である。

 

会社は法人という人である。この「人」は経済活動が義務付けられている。

すると、利潤を生む為の行動が優先となり、次第に「人」の軸足は、利潤追求のみに動き易い。「人」を取り巻く環境は多種多様であって、「人」に求めて来るものが必ずしも利益に結び付かないこともある。

 

しかし、利潤追求という経済軸によって廻っているうちに、遠心力によって他の価値観を放り出してしまっていることに気付かない。もし、一個人が、これは間違っているのではないだろうかと考えたとしても、利益という求心力に逆らえず「人」は危険な道に踏み込んで行く、、、。

 

こういう危ない崖っぷちスレスレの道も歩んでいるのが、「人」だということになる。と言って、崖から落ちてしまったのでは、元も子もない。そこで、必要なのが、諫言、即ち企業統治ということである。

 

絶対的な力を持った社長の下では、社員が時に盲目的思考に陥り易い。これは短期に急成長いや、膨張して来た会社に多く見られるものである。何故なら、

会社が掲げるべき理念を明確にしていないか、或いは、有ったとしてもその理念を社員が共有していないからである。

社長から社員に至るまで、理念、目標を共有して初めて、人を育てる事が出来るのである。

 

社風は最大の教育者である。その社風を作るのが社長の役目である。

社風は人を駄目にもし、育てもする。

 

経営者は人を「育てる」ことに喜びを感じて欲しいものである。

 

創業以来、「会社は家族」という思想で歩んでいる。

「真の家族」とは、単に血縁を言うのではなく、信頼関係の絆の結び付きを言うのである。

つまり、血縁関係があっても、「信頼関係の絆の結び付き」が無ければ、家族では無い。

会社でいう家族主義とは、全ての社員がお互い、共に苦労して行く過程で、楽しさを感じ、

絆が生まれて行く。そして、お互いの信頼関係が築かれて行くのである。

真の家族には、「権利と義務」の思想より、「責任と感恩」の関係が強い。

自分の職務の責任を一所懸命果たしている姿に、同僚も刺激され、いつしか感謝の念が湧いて来

る。そして、自分も一所懸命責任を果たそうと努力して行くもの。その姿にまた、その人も刺激され

る。この循環が「絆」を生む。