人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにある。

人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形作る支柱となる。
単に受身的に聞いたことは、何の価値も無い。
先ず、普遍性を学ぶことが『学問』であり、先。
 
経験はその後に、自らの手で掴み取って行くもの。
 
この順番を間違えてはならない!
 
およそ、経済状態が厳しく困窮している時は『学問』より、目の前の諸問題の解決に忙殺されている人が多いように思うが、真の解決に至らないのは『学問』の場を作らないからである。
こういう時こそ『学問』を最優先せねばならない。
 
万難を排して『学問』をする場を作って『人格教育』する場を作らねば、諸問題の真の解決には至らない。
 
『衣食足りて礼節を知る』は世界共通の真理だが、
『衣食足りぬ時も礼節を知る』民族が日本人である。これを誇りに思う。
 
教育は、人格を通して行くもの。教える人によって学ぶ質が変わって来る。
 
これを深く自覚して、責任と愛情を持って教える時、人間として歩むべき基礎が出来るのである。
 
共通の基盤固めが先。
皆の心の統一が先。それが在るから初めて、着実に仕事が進んで行くのです。
 
自分の会社を誇りに思うからこそ、人は人として生きることが出来るのです。
 
自分の会社を誇りに思えない社員も、誇りに思わせない社長も、どっちも、
つまらん!
 
 
商売は、突き詰めれば、
お客さんから『捨てられるか、拾われるか。』


拾ってもらえてることに、感謝を忘れてはないか。
拾ってもらえるよう日々の業務に『心を注いで』いるか。


心を込めるのではなく、
心を注ぐのである。

込めるには『力み』が感じられるが注ぐには『丁寧さ』が感じられるから、
エモーションでは『心を注ぐ』ことを言葉にしている。


お客さんから、捨てられるか、拾われるか、二つに一つだということを自分自身はもちろんのこと、社員全員の胸に留(とど)めさせねばならないと思う。

そういうことを毎朝、胸に呼び起こすことが、

『今を生きる』ということなのかもしれない。
枝葉末節に囚われては、いけないが、枝葉末節に至るまでを大事にしないものは、部下の心を治めることは出来ない。
勉強でなく、学問をせよ。

勉強は「強いられる」の意味が混在している。

学びは本来、強いられてやるものではない。

自主的に学んだことを、
問い合うのが『学問』。
だから、身に付くのとちゃうかなぁ。と閃き〓ました。