不平不満に生きている者は、不平不満の環境の中に一生を送らねばならない。


豊かさに恵まれて、初めて感謝が出来るのではなく、
感謝するから、感謝に値する環境が生まれて来ると思うのです。
先に自分からの感謝の想いです。順番がちゃんとあるんです。

だから、
心に豊かさを持っている者は、益々その豊かさを増すのです。
そして、心の貧しい者は、その持てるものをも奪われ、いつの間にか消えて行くものです。

あなたの周囲の人で思い浮かぶ人居ませんか。
運の悪そうな人。
せっかく生まれた時に備わっている心の豊かさも自分の思いと行動如何で、奪われて行くのです。


皆さん、言葉の贈り物くらいしていますか?

『言葉の贈り物』はお金要りません。

人に言葉を贈るには、自分なりの哲学がなければ、発信出来ません。

振り返ってみて、あなた!
人に、
奢ってもあげない。
プレゼントもしない。
すぐ損得が浮かんでしまう心貧しい人にだけは、
ならんようにしましょう。

そうしないと、持てるものまで奪われますよ。そして消えて行きますよ。

言葉くらい贈り続けませんか。
その為に、哲学を深めましょう。

自分は、何のために生きるのか。という考えを深めることが哲学です。

哲学を深めて行くと、
覚悟が出来ます。
心が楽になります。
そしてあなたの心が豊かになりますから。

そのコツだと思えることを教えますね。

『繊細さ』と『細かさ』の違いをよく考えることです。
繊細な人は、相手に対する愛情や思いやりの心が存在しているんです。

細かい人は、相手に対する愛情でなく、どこか責め心が存在しているんです。

まさに、似て非なるものなんです。

人間も仕事も、繊細でなければ、充実はしない!ものです。

繊細さは、意識して訓練すれば、徐々に身に付いて来ますから。

一に、意識。二に、哲学を深める読書。です。

相手を責めてはいけません。責め心がある限り、あなたから『繊細さ』が遠ざかって行くのです。
皆さん方の自分の人生は、
大いなる『自業自得』です。
そして『情を以て、道理を説く。』以外に、あなたの気持ちは伝わりません。

しあわせだなぁと感じることが出来ているのも、過去の自分の考えた事と行動した事の結果です。

また、困ったなぁ、不幸だなぁと感じることも過去の自分の考えた事と行動した事の結果です。

原因つまり、あなたの考えた事と行動した事が『因』で、どういう『縁』に触れるか、出会うかによって、結果が否応なしに現れます。『果』です。

分かりやすく算数に例えると、原因(因)が2という数字で、出会った縁が4という数字なら、
結果は8になります。
(人間関係=人間の交わり(×)=掛け算ですから)

出会った縁が5という数字なら、結果は10ですね。

これを『因縁果の法則』と言います。

縁も実は自分の波動(考えと行動)が呼び寄せるんだと思えてなりません。

だから、どんな結果であろうとも、大いなる『自業自得』なんです。

ちょっとした事を大切に、大事にしているか、どうかなんです。

だから、他人の所為(せい)にするなっ!って言いたいのです。

ものごとの『ものの見方』で、自分の幸不幸は決定されると思うのです。

自分の心をいっつも、ほんわか、穏やかに、
しあわせいっぱいにしていたいなら、
縁ある周囲の人達に対して『慮(おもんばか)る』何気ない言動をし、続けて下さい。

慮りとは、分かりやすく言うと『深い思いやりの心』であり、相手が自立出来るよう心から支援することを言います。

それには、勇氣が要ります。自分が良く思われたいという気持ちを払拭しなければ出来ません。

相手に対する愛情があれば自分が出来ていなくても、相手が良くなる為の事は、言える、注意出来るはずです。
自分が出来てないから言えないというのは、相手に対する愛情が無いからです。

相手に対する『責め心』がある人は、言えないでしょう。
要は『愛情』か『責め心』かの違いなんです。

責め心を持ってはいけません。

勿論、自分も出来るよう努力するのは当然のこと。

そんなの当たり前です。

自分が出来て、相手に言うから説得できるのは当然で、納得もしてもらいやすいでしょう。

でも、自分が出来てから他人に言うのは、そう愛情を感じていない相手に対して執る行為です。

自分の家族、会社、チーム全体の発展の為に、お互いが注意し合える仲でないと、
そこに愛情は芽生えません。

愛情が存在する間柄だから、お互いが注意し合える仲なのです。

それが切磋琢磨できるのです。磨き合う仲は、積極的摩擦を起こすという事です。
『なぁなぁ』が一番自分も相手もダメにしてしまう、お互いの魂を傷付けることになっているんだと自覚して、精進しないと『真に生きる』ことにならないと思う訳です。

役割分担があるから、家族、会社、チームが成り立つのです。
人は、それぞれに特性があり、それを発揮し合うことが『和』ですから。

『お前も出来てないくせに、偉そうに言うな!』と言われても、そんなの気にしてはいけません。

そういう人は、言ってくれる相手の慮りの心が理解出来ていないだけなんです。

相手に対する愛情があるなら『繰り返し言う勇氣』を持たないといけません。

それが『育ち合う』ということです。

自分が喩(たと)え、誤解されようと、伝え続けるのです。
裏切られようと信念を持って、伝え続けるのです。
そうやって伝え続けるから、お互いが育つのです。
まさに『共育』に成るのです。

そんな優しく、逞しい人に成りませんか!

普段の些細な何気ない、
あなたの、ちょっとした言動(立ち居振る舞い)があなたの、将来の幸不幸を決定しているという自覚を周囲の人達に向け合うことです。

それが『仲間』です!

皆さんの職場で、この『仲間』を作っていますか!?
最初は、意識せな出来ませんよ。

車の運転と似ています。
免許取り立ての時は、言われなくても意識してるもんです。

身に付いて来ると、意識しなくてもスムーズな運転が出来るようになります。

人間関係も同じ。

自分の将来の心の安定、
充実の為に、周囲の人達に慮りの言動を今からして下さい。常に自分の心に問い直して振り返って下さいね。

今週言いたいのは『慮りの言動』です。

何気ない普段の仕草や言動に『情』が溢れてなければ、慮(おもんばか)ることは出来ません。

情を以て、道理を説くのです。
社員教育も、子育ても、
様々な指導も同じです。

情を以て、道理を説くことでしか、伝わらないし、
その相手が、身に付かないのです。

もう一度言います。

情を以て、道理を説いて下さい。

だから、毎週のメッセージを、ただ何となく読み流すのは、慮りとは言えませんし、
せっかくの発信者の慮りも受け取れないのです。

あなたが、毎週、あなたの仲間達の心の栄養の為に、メッセージしてる立場だったら、、、、、、と考えて自分に置き換えて毎週のメッセージを味わってくれる姿勢が、実はあなた自身の栄養になるのです。

感謝。
『節目』に検分する。

『節度』を大切にする。
そして、
『節約』をする。

皆さん、この三つの『節』を意識していますか!?

何気ない日頃の無意識なる自分の態度に、出るんやなぁこれが。

こういうのに『運』が左右されると思えてなりません。

だから何事も『自業自得』なんです。ほんまに。

日本人の言う『秩序』とはどういうことかと言うと、
相手の言っていることも、正しい。

自分も正しい。

と自覚して歩むことである。
これが、中々難しい。

何でか?それは自我が出て来るからである。

自己反省をして、創意工夫をする為に、


相手に敬意を持ち、
礼を尽くすことが、


自分の『徳』を養成するのである。

これもまた難しいのよ。

好きな相手なら、敬意も礼も尽くせるが、

嫌いな相手なら、中々、尽くせないものです。

でも、ココを自身の良心が自分をより良くする為に、
ツキを付け、運を上げてくれているんだと、自覚してほしいのです。

この自分の『徳』を以て判断することが大事で大切なんです。

判断基準は、自身の良心の徳でするものだと思う次第です。

だから、ワシは自分の大切な社員達や友人達に、このことを願って止まない訳です。
物事の判断基準つまり、
自分の『モノサシ』を持っていない人が、まぁほんまにようけ居(お)る。

実に情けない次第です。

しかも、世間で言う『ええ歳』してる人達に多い。

『ケチくさい人』と
『ケチくさく無い人』
どちらが好ですか?

『だらしない人(物事を安易に考え行動し、丁寧に考えない)』と
『だらしなくない人』
どちらが好ですか?

あなたは、自分を客観的に観て、ケチくさい人ですか、気前のいい人ですか?
どうか気前のいい人であって下さい。

生活が、だらしない(物事を安易にし、丁寧に行動しない)人ですか、
思慮深い人ですか?
どうか、思慮深い生き方をして下さい。

例えば礼儀。

本来礼儀とは、人が礼(お辞儀)をする時、どこが見えるか。自分の足元が見えますね。
つまり、礼とは自分の足元を見つめる自己反省のこと。

相手に対して自己反省しつつ、自分がその人に何を以てお役に立てるのかを内観して、
その気持ちを表す(行動)ことが、礼儀なんです。

また、相手に会った時、その人から何を学んだのかを、相手に見せることが礼の道なのです。
例えどんな人と会ってもです。

『世間体や義務感』では決してないのです。

そういうことを自分の内面、良心に問わな、いかんことすら、
全く解ってない人が多いと感じませんか。

例えば冠婚葬祭のお祝いやお香典もそう。

割り勘のようなことをしている人が多過ぎる。
※同僚や友人と飯食べに行ってるのと違うのに。

自分の気持ちを『割り勘』的に安易にしてはならない。これこそ『失礼』というものです。
そんなことしてたら、あなたの人生『割り勘』になってしまうで。ほんまに。

これでは、その人に対する『気持ち、想い』が無いのと同じ。
※気持ちが有ったとしても、行ないが思慮深くなく、軽いからか、
はたまたそこまで想う対象で無いか、なのでしょう。

何故、他人(ひと)と合わすのか?こういう事は合わす必要はないのに。自分の想いの表現なのに。
他人と合わさなければいかんものと、合わしてはいかんものの違いすら解ってない、
いや考えたこともない人が多いんだろう。

こういうのが、自分の人生を丁寧にしたいと思っていないということです。

※『自分らしく』生きたいと皆思ってるはず。

なのに、想いを行動に表さないから『らしく』生きれないのよ。
皆さん『善悪の善』とは、時と処(場)と位(立場)に相応しい行動が出来ている時、
初めて『善』に成るのです。浅はかな自分の考えで『善悪』を判断してはいかんのです。
それが出来ている時『らしく』生きれているのです。だから『らしく生きる』って思慮深いものなんです。

斯く言うワシも自分で皆さんにメッセージしながら、果たして『らしく』出来ているのか、
いつも内観し、反省しているのです。

あ、冠婚葬祭の件だね。

金額の多い少ないの問題でなく、自分が、その対象者に対する『想い』を今自分のしてあげたいことをしてあげれば良いという考えすら浮かばない人が(様々な事象に出合ってみて)多いと思うのであります。

清い心でしてあげたものは、ちゃぁ~んと、回り廻って自分に返って来るのよ。ほんまに。
しかも何倍かになって。
これも体験者(ワシ)は語る、やから。

見返りを一切求めていないから、神さんが、その人に相応しいことで返してくれてるんやろうと感じます。

判断基準つまり、モノサシは、自分の背筋がピン!となるような、
自分を諫(いさ)めてくれるようなモノで、自分が後で心嬉しくなる、
スッキリするようなものでないと『モノサシ=判断基準』に成り得ませんよ。と言いたいのです。

そこに妥協は存在しません。信念や、気持ちや、感謝が存在するだけなのに。

誰しも、自分の内面に、そして自分の良心に聴いたら、自分の心の曇りや垢が取れるのに。
これが『素直』になるということだと思うのであります。

そういう時に、ケチくさくなってはいけません。
だらしなくなってはいけません。

どうか、ワシの仲間、友人知人には、その素直なモノサシを確りと持ってほしいと思うのであります。